テコンドーの歴史

ベトナム戦争終結~2000年History

ベトナム戦争終結

1973年

※韓国のベトナム派兵:韓国政府(朴政権)はアメリカからの参戦要請を受けて、1964年、移動外科医療団とテコンドー教官を当時の南ベトナムに派遣した(1962?歴代教官団団長:南太熙、ペク・チュンギ、チェ・ドンフィ、キム・ソッキュ、コ・ジェチョン、キム・ボンシク、チョン・ビョンギル、キム・スンギュ…)。これを皮切りに、ベトナム戦争と深く関わることになる。朴大統領はアメリカからの経済援助と引き換えに65年からはついに戦闘部隊を送り込み本格参戦。73年に撤退するまで、657人のテコンドー有段者(青涛館出身者)と31万人あまりの韓国軍兵士をベトナムに派遣した。

1974年

大韓テコンドー協会/1月12日、韓国国民学校テコンドー連盟創設。

5月15日、WTF第1回国際審判講習会開催。

8月7日、大韓テコンドー協会中央道場を(財)国技院として登録。

10月18日、第1回アジアテコンドー選手権大会開催(ソウル)。

12月31日、文教部令第350号により高等学校体育教課過程にテコンドー種目採択。

ITF/第1回世界テコンドー選手権大会をカナダ・モントリオールにて開催。

崔泓熙ITF総裁は、11月に第4次ITFデモンストレーションチームを引率し、ドミニカ、コロンビアでデモンストレ‐ションを行い、12月にはベネゼイラ、スリナム、クラカオにて現地師範を集め教育指導。

1975年

WTF/8月28日、第2回世界テコンドー選手権大会開催(ソウル)。

10月8日、WTFは国際競技連盟総連合会(GAISF)に加入して国際的なスポーツとして承認される(カナダ・モントリオール)。

ITFはオーストラリア・シドニーのオペラハウスにてテコンドーのデモンストレーション行う。また、崔泓熙ITF総裁はギリシャ、スイスを含むヨーロッパを巡回訪問。

オランダ、アムステルダムで、第1回ヨーロッパテコンドー選手権大会開催。

1976年

WTF/4月9日、国際軍人体育委員会(CISM)へテコンドーを正式競技種目として採択(ソウル)。 ITF/崔泓熙総裁はイラン、マレーシア、インドネシア、そしてヨーロッパ各国を巡回しセミナーを開催する。オランダ、アムステルダムで、第一回ヨーロッパテコンドー選手権大会開催。

1977年

9月、崔泓熙ITF総裁は日本・東京で開催された韓国独裁政権を糾弾する大会に参席し、「テコンドーを個人の政治的道具と利用する朴正煕大統領の罪状を暴露」。そしてマレーシア、ニュージーランド、オーストラリア、スウェーデン、デンマークを巡回訪問し各国の協会設立を促した。

1978年

5月、崔泓熙ITF総裁はマレーシア、パキスタン、南アフリカを巡回訪問後、第5次ITFデモンストレーションチームを引率し、スェーデン、ポーランド、ハンガリー、ユーゴスラビアにてデモンストレーションを行う。

※ 1978年12月27日、朴正煕第9代大統領就任。

1979年

崔泓熙ITF総裁はノルウェー・オスロにて東西ヨーロッパを統一した統一ヨーロッパテコンドー連盟を結成させた後、スウェーデン、デンマーク、西ドイツ、フランス、グリーンランドを訪問。同年11月に第6次ITFデモンストレーションチームを引率しアルゼンチンを指導訪問。

※1979年韓国

10月18日、釜山に非常戒厳令宣布。釜馬民衆抗争。

10月26日 朴正熙大統領、金載圭KCIA部長(中央情報部長)に暗殺される。全国に戒厳令宣布。

11月24日ソウルで140名の民主運動人士が逮捕され、拷問。

12月12日保安司令官・全斗煥将軍、戒厳司令官・鄭昇和陸軍参謀総長を逮捕。陸軍第3軍司令部、陸軍本部、国防部を襲撃し、国防長官を拘束。粛軍クーデター「ソウルの春」。

1980年

WTFが国際軍人体育委員会(CISM)に加入。7月17日、モスクワで開かれた第83回IOC総会にて世界テコンドー連盟とテコンドー種目が承認される。

11月1日、第1回CISMテコンドー大会開催(ソウル)。

ITF/崔泓熙氏が北朝鮮政府の要請を受け第7次ITFデモンストレーションチームを引率し初めてテコンドーを故郷の地に紹介。(崔泓熙氏の出身地は咸京北道)/朝鮮テコンド‐連盟開設が可能となった。

同年、11月、18カ国参加の第1回テコンドー東西統一ヨーロッパ選手権大会がイギリス・ロンドンにて開催。

第7次ITFデモンストレーションチーム/ピョンヤン
【 第7次ITFデモンストレーションチーム/ピョンヤン 】

※1980年韓国

4月14日全斗煥将軍、中央情報部長を兼任。

4月中旬労働者、学生の民主化要求デモ高潮。

5月15日 ソウルで5万の群集がデモ。

5月16日 新軍部、戒厳令を全国に拡大。光州で3万の群集がデモ。

5月17日 全斗煥将軍、すべての政治活動を禁止し、国会強制解散、大学を封鎖、金大中ら民主人士と学生を逮捕(非常戒厳令を全国に拡大)。

  

1981年

WTF/1月15日、国際スポーツ体育評議会(ICSPE)にWTFが加入。WTF 日本テコンドー連盟設立。

ITF/1981年には、第1回テコンドー太平洋地域選手権大会がオーストラリア、クィーンズランドで開催されるなど、著しい発展を遂げる。

南太平洋テコンドー連盟とオーストラリアテコンドー連盟を結成。同年、崔泓熙ITF総裁は第8次ITFデモンストレーションチームを引率し6月に日本・東京を訪問。8月、アルゼンチン・レシタンシアでITF第3回テコンドー世界選手権大会開催。

10月北朝鮮を訪問。

11月オーストリア・ウイーンにて開催された海外キリスト教会会議で南北朝鮮のテコンドー師範たちによる演武会を披露。

※ 1981年3月3日、全斗煥、第12代大統領に就任。第5共和国出帆。

1982年

6月、ITFはカナダにて北米テコンドー連盟結成。同年、崔泓熙ITF総裁はプエルトリコ,グリーンランド、イギリス、西ドイツ、オーストリア、デンマーク、ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキア、ユーゴスラビア、フィンランドを指導のため訪問。

1983年

ITF 日本国際テコンドー協会設立 初代会長 チョン・ジンシク

1984年

WTF/OCA総会で第10回ソウル・アジア競技大会から正式競技種目に採択。崔泓熙ITF総裁はIOC本部を公式訪問しサマランチ会長と会談/ITFとWTFの統合問題について意見提出。

ITF/スコットランド・グラスゴーにて第4回世界テコンドー選手権大会を開催。

模範立ちを演ずる崔泓熙ITF総裁
【模範立ちを演ずる崔泓熙ITF総裁】

1985年

5月ITFが本部をオーストリア・ウイーンに移転(これを機に共産圏でのテコンドー普及が容易になった)。また、崔泓熙氏の創始したテコンドーの完全完成版百科事典完成。

※完全完成版百科事典は北朝鮮で出版された。
北朝鮮ではどんな出版物であろうと金日成主席の肖像画や大きな文字で書かれた金日成という三文字が入らなければ出版できないということが常識となっていた。

北朝鮮で1985年テコンドー百科事典が出版されたとき、その内容に対しクレームをつける者が多くいた。主体思想に関する言葉が一切見当たらず、また金日成親子に対する言及も一切されていないことが問題だとし、百科事典の冒頭に「偉大なる首領金日成同志と親愛なる指導者金正日同志を支え朝鮮の統一と世界平和のために邁進しよう」という文句を入れろという高級官僚からの要請があった。崔総裁は断固として最後までこの掲載を断り続け、一時は出版中止となる可能性も浮上したが、無事に完全完成版百科事典(全15巻)を世に送ることができた。

参考資料:崔泓熙総裁回顧録

1986年

WTF/7月、米国コロラド州で第1回ワールドカップ・テコンドー大会を開催。9/30?10/3、第10回アセアンゲームに正式種目として参加(ソウル)。

ITF/中国にテコンドーの普及開始。ギリシャ・アテネにて第5回世界テコンドー選手権大会を開催。

1987年

WTFテコンドーが88年ソウル・オリンピック大会で公開種目決定

 ※ITF/北朝鮮でテコンドーの映画が上映された。
当時の映画の冒頭で「テコンドーは高句麗時代から引き継がれてきたものが1945年、開放と同時に偉大なる首領金日成同志と親愛なる指導者金正日同志によって発展され、今日全世界に広まっている・・・」というシーンから始まった。
この映画を観た崔総裁は夜も眠れず、当時北朝鮮のテコンドー委員の幹部たちを呼び集め、この映画の不当性を強く抗議し、責任追及を行った。
崔総裁は当局に「北朝鮮のテコンドーは1980年10月に私が始めて北朝鮮へ入ってから広まったことを世界のテコンドー会員たちの誰もが知っていることだ」と主張した。また、当時韓国も「新羅時代からあったわが国固有の武道」と宣伝しているところへ北朝鮮もこのようにテコンドーを宣伝するならばもう再びこの北の地を踏むことは無いだろうと告げた。こうして断固と望むやようやく映画の内容が修正されることになった。
また、北朝鮮労働党のある高級官僚が崔総裁に対しテコンドー精神よりも主体哲学のほうが良いのではないか?と迫ったことがあった。チェ総裁は「全人類に属しているテコンドーに主体思想を加えることはできません」と答えたが、引き下がらない高級官僚はさらに「主体テコンドー」としたらどうだと強腰で迫ってきた。

チェ総裁は「あなたひとりで主体テコンドーをしなさい」と台詞を残して帰った。

参考資料:崔泓熙総裁回顧録

1988年

WTF/9月、第24回オリンピック大会(ソウル)で公開種目開催。 ITF/ハンガリー・ブタベストにて第6回世界テコンドー選手権大会を開催。

1989年

ITF/北朝鮮・平壌(ピョンヤン)にて開催された第13回世界学生、青年祝典にてテコンドー模範競技を開催。

1990年

ITFがソビエト・モスクワにテコンドーの普及開始。ITFカナダ・モントリオールにて第7回世界テコンドー選手権大会を開催。
※ 1991年 12月ソ連崩壊

1992年

WTF/テコンドーが第25回オリンピック大会(スペイン・バルセロナ)公開競技となる。
ITF/北朝鮮・ピョンヤンにて第8回世界テコンドー選手権大会を開催。

1993年

※韓国
金泳三氏が大統領に就任(第14代)。/韓国で建国後、初の文民大統領となった

1994年

※北朝鮮7月8日 金日成死去

IOC(パリ・IOC第103回総会)によりWTFテコンドーが2000年シドニー・オリンピック大会で正式種目となることが承認される。第12回アジア大会(広島)で正式種目として参加。

ITF/マレーシア・クアラテレンガヌにて第9回世界テコンドー選手権大会を開催。

1997年

ITF/ロシア・サンクトペテルブルグにて第10回世界テコンドー選手権大会を開催。

1998年

※韓国
金大中氏が大統領に就任(第15代大統領)。
国際体育評議会(ICSPE)にWTFが加盟。

1999年

WTF/第13回アジア大会(タイ・バンコク)に正式種目として参加。
ITF/アルゼンチン・ブエノスアイレスにて第11回世界テコンドー選手権大会を開催。

2000年

WTF/2000年シドニーオリンピックにて正式種目として競技が進められた。
ITF/日本・東京にて第1回アジアテコンドー選手権大会を開催。

 
【 ※ 同年6.14平壌にて金大中大統領(韓国)と金正日総書記(北朝鮮)による南北首脳会談実現 】

故崔泓熙ITF総裁の談 ベトナム戦争~カナダ亡命

「テコンドー・タイムズ113号(2000年1月発行)崔泓熙総裁へのインタビューより抜粋」

キム博士:
1966年、あなたは国際テコンドー連盟(ITF)を創立します。この組織を設立した目的と、当時あなたを助けてくれた人のことを教えて下さい。
崔総裁:

1965年、私が大韓テコンドー協会の会長をしていた時、在西ドイツ韓国大使で私の友人だった崔徳新将軍がヨーロッパにテコンドーの親善使節団を迎えたいという声があることを教えてくれました。
彼は、ヨーロッパとアジア6カ国から使節団派遣が公式の招待となるように手配してくれました。私は政府に対し、正確な旅費の文書を提出しました。この使節団の名前は「国技テコンドー親善使節団」でした。 私が公式文書に、国技テコンドーという言葉を使ったのはこの時が最初でした。この使節団のメンバーはハン・チャギョ、パク・チョンス、クォン・ジェハ、そして金昌根(キム・チャングン)で、私が使節団長でした。私たちは、西ドイツ、イタリア、エジプト、トルコ、マレーシアそしてシンガポールを遠征しました。演武会は大成功し、結果的に遠征した国々でテコンドー協会が創設されることになりました。
1966年の3月22日、9カ国の代表者がソウルに集まり、国際テコンドー連盟(ITF)が創設されました。与党共和党委員長の金鐘泌氏が名誉会長に選ばれ、私は総裁に選ばれました。マレーシアの通商産業大臣である Lee, Han Ra氏が副総裁に選ばれました。事務局長に嚴雲奎(オム・ウンギュ)、技術委員会の委員長に李鐘佑(イ・ジョンウ)が選出されました。
国際テコンドー連盟の創設は、国際機構の本部が韓国に創られたこと、そして韓国人が総裁を務めるという点において、韓国史上初めての出来事でした。国際テコンドー連盟の創設メンバーとなった国々は、韓国、ベトナム、マレーシア、シンガポール、西ドイツ、アメリカ合衆国、トルコ、イタリアそしてエジプトでした。連盟は急速に大きくなり、たった2年で30カ国が加盟しました。

キム博士:
ベトナム戦争の間に、どのようにテコンドーは広く普及し、多く訓練されるようになったのですか?
崔総裁:

ベトナムは、テコンドーが大々的に教授された最初の外国です。前にも言いましたが、ゴ・ディン・ディエム大統領は1959年の我々の演武会に強い感銘を受け、指導者たちに、ベトナムの軍隊で教えて欲しいと要求しました。
最初の師範団は、南太熙(ナム・テフィ)少佐の引率で1962年にベトナムに着きました。この師範たちはテコンドーを、ベトナム軍、市民そしてベトナムに駐留していた韓国や他の国々の兵士たちに教えました。ベトナム戦争が拡大するにつれ、ベトナムに送られる指導者の数が増えていきました。
1973年までに647名のテコンドー指導者たちがベトナムへ行きました。
彼らの指導で、兵士たちは技術においても、新しく開発されたトゥルにおいても、上達を見せました。韓国人兵士のテコンドー訓練による強さは、ベトコン(南ベトナム解放戦線兵士)に心理的な影響を与えました。
テコンドーの訓練を通して、韓国人兵士は良好な健康状態と強い精神力、そして優れた戦闘技術を身につけていました。
ベトコンの指導者たちは兵隊たちに、もし韓国人兵士に遭遇した場合は、戦わずに退却するようにと通達していました。皮肉にも、テコンドーは戦争によって飛躍的に広まりました。
ベトナムでテコンドーを学んだ大勢の外国人兵士たちは、後に自分の故国に彼らの指導者たちを招待しています。ベトナム戦争によって、多くの指導者たちは世界中でテコンドーを教える機会を得たのです。

キム博士:
崔将軍、あなたにとって答えにくく、個人的な質問をしますが、韓国からの亡命の背後にはどんな理由があったのですか?
崔総裁:

朴正煕大統領が再選を果たしてから、彼の韓国国内での力が堅固になりました。韓国の政治的風潮から、私が韓国にいて彼の政策を支持しないならば、私は自宅に軟禁されるか刑務所に入れられるかどちらかだろうと考えました。
私は彼が、政敵に何をしてきたのかずっと見てきました。このような周囲の状況から、私はテコンドーの奨励やITFの運営を自由にできなくなる様子でした。
そしてテコンドーは私の人生そのものでした。
選挙の後、朴大統領は、私に代わり大統領警護室補佐官の金鎔采を大韓テコンドー協会の会長に就任させました。それから程なく、大韓テコンドー協会はITFに干渉してきました。
1971年の8月、私はITFの常任委員会を主宰しました。
この委員会で私は言いました。「委員の皆さん、国際テコンドー連盟の総裁は韓国人ですが、だからといってITFが韓国政府に支配され、管理されるということはありません。ITFは国際機関であって、私たちの決定にはたとえ圧力があっても、いかなる国の影響も受けません」と。
その後、私は秘密裏に韓国を去る計画を立て始めました。

キム博士:
亡命先にカナダを選んだ特別な理由があったのですか?
崔総裁:

ありました。まずカナダは西側諸国の一員だと考えられていましたが、国際的な問題については中立的立場を維持していました。
私は、カナダからなら、西側にも東側にも、そして第三諸国の国々にも自由に行かれてテコンドーを普及できると思いました。
2番目の理由は地理的なもので、カナダはヨーロッパと南アメリカのちょうど中間に位置しています。ですから、それらの国々に行くのに便利でした。
3番目の理由は、私の愛弟子のパク・チョンスがすでにカナダにしっかりとテコンドー協会を創設しており、大変盛況な道場を経営していたのです。ですから、ITFの本部をカナダに移すことは簡単でした。
その後私は、1976年にカナダのモントリオールでオリンピックが開かれることを知りました。
私は、カナダを基盤にテコンドーをオリンピックの競技に昇格させるいいチャンスが来たと思いました。

キム博士:
予備役二つ星将軍がカナダに亡命したことを知った韓国政府の反応はどうでしたか?
崔総裁:

朴大統領は、韓国へ帰るように私を説得するために、著名な国会議員を私のもとに送り込みました。
彼らは、朴大統領が私に、外務大臣や好きな国での大使のポストなど内閣の地位を約束したと告げました。
これらの最初の企てに私が反論すると、次に朴大統領は私の中の良い友人を送って私の帰国を説得させました。それも失敗に終わると、朴大統領は私の息子と娘を誘拐し、もし私が戻らないならば彼らの命の保証はしないといいました。
私の答えは、「私は息子よりテコンドーを選ぶ」でした。朴大統領は私の性格と決意を知り、金雲龍氏にITFと戦うために世界テコンドー連盟(WTF)の創設を命じました。

キム博士:
25年間の亡命生活で、あなたはどのような苦難に遭いましたか?
崔総裁:

亡命した人間の生活がどれほど孤独なものか、誰にもわかりません。私には財産もなく、笑ったり冗談を言い合ったりする友人もいません。でも私は、韓国を去った自分の決意を後悔したことは一度もありません。なぜなら、私はテコンドーを世界中に広める機会が得られたからです。
そして私は、民族・宗教・国籍そして思想に関係なくテコンドーを教えてきました。この点に置いて、私は世界一幸福な人間ですし、この世界に自分の足跡を残してきたことを誇りに思っています。テコンドーを世界中に広めることは、困難ですが非常にやりがいのある仕事です。
私は常に旅をして、セミナーを開き、演武会を指揮し、大会を主宰しています。私はこれらのことを、KCIA(韓国中央情報部)や韓国外務部から命を狙われる中でやってきました。
韓国政府の情報部員は空港の職員に、私が韓国大統領を殺そうとしているテロリスト組織のリーダーで、入国を拒否すべきだと教えました。
彼らは、我々にセミナーの施設を与えないために、体育館の所有者に圧力をかけました。公園でセミナーを開かなければならなかったことが何度もありました。
彼らは私の古い教え子を何人か送り込み、何度も私を誘拐しようとしました。私を暗殺しようとした企てもありました。
KCIAの情報部員は海外で教えている師範たちに、私との関係を継続するならば師範たちの両親を脅迫するといいました。
情報部員たちはまた海外居住者の師範たちに、もし変わらずに私を支持するならパスポートは更新しないと告げました。ですから時間が経つにつれて、海外の師範たちは私から離れていきました。
韓国政府から私が受けた圧力のせいで私はさらに強くなり、自分の持っているエネルギーをすべて新しいテコンドーの技の開発に注ぎました。
私は世界中で、同じ体系的方法でテコンドーを教えています。



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