テコンドーの歴史一覧
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ベトナム戦争参戦~1973年History
► 時代背景 韓国軍のベトナム戦争への参戦
1964年
朴正熙政権はアメリカの要請により、1964年に最初の海軍部隊を派遣したのを皮切りに、1965年10月には陸戦部隊である猛虎師団1万数千を派兵して本格的に参戦。
1973年3月23日に完全撤収するまでに最大約5万人、のべ35万人以上の兵力をベトナムに投入した。
韓国軍は北ベトナム兵などを約4万人(公式記録)殺傷したものの、韓国軍の犠牲者も戦死約5千、負傷約2万に上った。オーストラリアやタイ王国もアメリカの要請によりベトナム派兵したが、アメリカ以外の国としては、韓国が最大の兵力を投入した。
米韓の協定により、派兵規模に応じた補助金を得られたということ、また北朝鮮や中国などの軍事的脅威を身近に感じていたため共産主義勢力の伸張に対して強い危機感を持っていたこと、軍に対して国民に理解があり、反戦運動が盛んでなかったことなどがその理由である。韓国軍は国内の最精鋭部隊を投入し、朝鮮戦争の経験を生かして精強な戦いぶりを見せた。
アメリカ政府は、ベトナム戦争に参戦した韓国軍兵士に対し、その見返りとして、希望に応じて永住権を与えた。その結果、韓国国内の政治的な混乱もあり、若年層の韓国人のアメリカ移住(特にカリフォルニア州への移住)が急増したと言われている。
【右:戦時中のベトナム国民(ベトミン) 左:南ベトナム解放民族戦線のゲリラ(ベトコン)の死体】
1964年
4月3日、大韓テスド協会役員/会長:パク・チョンテ、副会長:ペク・ムン、専務理事:嚴雲奎。
同年、崔泓熙大使が自らにより、完成させたテコンドーの型をベトナムのペク・チュンギ団長に教授し唐手との違いを明白化させた。また、シンガポールテコンドー協会を設立。
崔泓熙大使は末年に帰国後、大韓テスド協会会長の職を引受けテスド(テコンドー)界の浄化作業開始。同年9月に開催された第45回大会からテスド(テコンドー)が全国体育典に正式競技種目として参加。
1965年
大韓テスド協会1月15日/会長:崔泓熙、副会長:李鐘佑、ハ・ガプチョン、専務理事:嚴雲奎(青涛館館長)。
崔泓熙氏が英文テコンドー教本発刊。更に崔泓熙大使は帰国後、3月18日、「統合宣言」式開催「大韓テコンドー協会」を主張。
武徳館館長、黄琦(ファン・ギ)は「統合宣言」を無効と主張(武徳館はこれを機に内紛騒動が起きキム・ヨンテクとホン・ジョンスらが主軸となり黄琦を除名した後、統合に協調)。
黄琦(ファン・ギ)は以降、独自に「大韓手搏道会(テハンスバクトフェ)」を活動させる。8月5日になって大韓テスド協会は再度、大韓テコンドー協会の名称に改称される(会長:崔泓熙)。
また、予備役二つ星将軍(将軍としての権威効力を有す)であった崔泓熙将軍は韓国政府から承認を受けた国家テコンドー親善使節団を引率し、西ドイツ、イタリア、エジプト、マレーシア、シンガポール等を巡回しデモンストレーションを行った。その結果各国に協会が設立されることとなった。
【 国家テコンドー親善使節団 】
1966年
1月、崔泓熙将軍は大韓テコンドー協会会長を理事らによる不信任によって退陣。大韓テコンドー協会第5代会長に松武館館長 盧秉直(ノ・ピョンジク)就任、副会長:嚴雲奎(青涛館館長)、ペ・ヨンギ、キム・ヨンテク、専務理事:イ・ナムソク。大韓テコンドー協会が10月28日、第1回大統領杯争奪団体対抗戦開催。
同年、崔泓熙陸軍少将は国際テコンドー連盟(International Taekwon-Do Federation : ITF)を創設。9カ国の承認/崔泓熙陸軍少将が総裁に就任。名誉会長に与党共和党の金鐘泌議員が選出された。
(ソウルの朝鮮ホテルにて式典開催)
【 1966年、ITF創設記念式典 】
1967年
1月、朴大統領により大韓テコンドー協会第6代会長に国会議員金鎔采が就任された。副会長に嚴雲奎(青濤館館長)、イ・カンイク、専務理事:李南石。金鎔采が就任され国内のテコンドー組織は事実上、二分化された。
10月27日ITFは文教部社会団体登録(第27号)を完了。11月30日、大韓テコンドー協会が指定型を審議し公布。
崔泓熙ITF総裁がベトナム政府より一等功労勲章を授与。そして、韓国・ベトナム テコンドー財団を設立。
崔泓熙ITF総裁は8月にシカゴの全米テコンドー大会に招待され、11月26日までにアメリカテコンドー協会を設立し、本部をワシントンDCにおくことに合意。
日本では箱根にて大山倍達氏と会談(日本へのテコンドー普及について)。また、崔泓熙ITF総裁は台湾から蒋介石総統より要請を受け軍人テコンドー師範団を台湾軍部に派遣。
△大山倍達氏と会談
1966年、崔泓熙将軍は大山倍達氏が日本人に帰化しようとする話を友人から聞き、アメリカから戻る途中、東京へ立ち寄った。
崔将軍は当時、崔永宜(チェ・ヨンウィ:大山倍達の本名)氏に対し、「あなたは韓国で生まれたが、人生のほとんどを日本で過ごしてきました。
あなたは、日本人として、特に空手の第一人者として知られているので、機会を見て韓国人に戻り、そして、すべての組織をテコンドーに転換させるべきだ。そうすれば、全朝鮮民族はあなたを尊敬するだろうし、世界中の人々はあっと驚くはずだ。そうなれば、あなたは愛国者だけでなく、わが国の歴史に永遠と名を残す偉人になれるだろうから私としては羨ましくも思い、また、そうなる日が来るのを願っています。」また、崔将軍は彼の韓国に住む実弟の生活についても話した。
崔将軍の言葉に動揺した大山氏は、崔将軍と義兄弟の関係を結び、弟になることを自認した。
崔将軍の呼びかけに答え、大山氏は統合のための試作道着を手に抱え、28年ぶりに故郷の地、韓国を訪れた。
大山氏は崔将軍に連れられ、ソウルと非武装地帯を訪れた後、崔将軍の企画したテコンドー演武会を観覧した。
それから二人は大山氏の故郷を訪問し、大山氏は弟や親戚の人と再会した。崔将軍はまたKBSテレビの、大山氏のインタビューも企画した。
両連盟(国際テコンドー連盟と国際空手道連盟)の統合を目前にした時点で、彼の韓国における日程が問題となった。
当時、大韓テコンドー協会とITFとの間では海外師範の進出問題や段証問題、それにITF総裁が大韓テコンドー協会の名誉会長になるという協会側の規約撤廃問題など熾烈な争いが繰り広げられていた。これは朴政権によるテコンドー掌握の動きと、それに抗う崔将軍との対立問題の一角を現すものであった。
大山氏の訪韓日程は、大韓テコンドー協会および政府関係者とのミーティングを括りに終った。
朴大統領の掌握する大韓テコンドー協会と韓国政府の要人が大山氏に、崔将軍に対する恥辱的発言を繰り返したことは容易に推測ができる。
大山氏は東京へ戻るとき、金浦空港で崔将軍にこう言い残した。
「崔将軍、許してください。私のような純真な人間はこのように複雑な環境の中では到底、耐え抜ける自身がありません。」
大山氏はこの日を後に決して韓国人として戻ることはなかった。また、崔将軍の亡命後におけるKCIAの圧力から二人は公に接触ができなくなった。
朴正熙大統領と崔泓熙将軍の確執はこのように国際テコンドー連盟と国際空手道連盟(極真空手)の統合を阻み、後にテコンドー組織の分裂を生むことになった。
この二大組織の統合が達成されていたなら今日の勢力図は大きく変わっていたかも知れない。
※当時、韓国国内で放送された大山倍達氏はテコンドー家として紹介された。そのため、彼が空手ではなくテコンドーを学んだものと理解している韓国人が現在も多くいる。
参考資料:テコンドー・タイムズ113号記事 / 蒼軒研究会 資料抜粋
1968年
1月、大韓テコンドー協会会長にキム・ヨンチェ(金鎔采)、副会長に嚴雲奎(オム・ウンギュ)、ソウルで大韓手搏道会が第一回世界大会開催。また、大韓テコンドー協会は規定型(品勢/プムセ)のパルゲ(八卦)1章?8章、高麗、金剛など17の型を制定。
8月28日、大韓テコンドー協会は加盟団体からITFを正式に除名し傘下に「国際委員会」を新設。
一方、ITFは11月5日、外務部民間親善外交団体登録を終了(第60号)。
崔泓熙ITF総裁はパリで開催された国際軍人体育会のシンポジウムに韓国代表で参加/テコンドーを軍人の体育種目に採択させる為の学術論文を発表し、32カ国の代表の前でデモンストレーションを成功させる/(パリのテレビ放送を通じて初めてテコンドーがフランスに紹介された)。そしてイギリステコンドー協会設立後スペイン、オランダ、カナダ、インドなどを普及訪問、帰国後、韓国政府より体育研究賞受賞。
1969年
1月12日、大韓テコンドー協会会長に金鎔采(国会議員)、副会長に嚴雲奎、李南石、専務理事にホン・ジョンス。香港にて第1回アジアテコンドー選手権大会開催。
1970年
崔泓熙ITF総裁が南太熙(アジアテコンドー連盟会長)と共に20カ国普及訪問。
1971年
大韓テコンドー協会/1月17日、会長:金雲龍(大統領警護室補佐官)、副会長:嚴雲奎、李南石、チャン・ジェシク、専務理事にホン・ジョンス。3月15日、季刊テコンドー誌創刊号を発刊。3月20日、朴正煕大統領によりテコンドーが国技の揮毫を受ける。
3月、マレーシアにてITFは第2回アジアテコンドー選手権大会を開催(マレーシア国王夫妻参席)。
韓国政府はイラン軍部からの要請により崔泓熙ITF総裁に教官派遣を要請、崔泓熙ITF総裁はテコンドー教官団2名を派遣。
4月6日、第7代大統領選挙で朴正煕当選。
5月7日大韓テコンドー協会が礼儀規範を制定公布。
1972年
大韓テコンドー協会/1月16日、会長:金雲龍、副会長:パク・ポフィ、専務理事:嚴雲奎。1月19日、技術審議会発足。1月25日、審判講習会開催。4月4日、第1回指導者教育開催。
11月30日、中央道場を竣工。
品勢(プムセ:型)である太極(テグク)1章?8章を制定。
12月1日、テコンドー教本・品勢(プムセ:型)編発刊。
ITF/崔泓熙総裁は、テコンドー百科事典(英文版)作成のための資料収集作業と国際師範教育のために29ヶ国を巡回訪問(ヨーロッパ、北米、中米、中東、アジア/中でもボリビア、ドミニカ、ハイチ、グァテマラではその国ごとに大統領に直接テコンドーを紹介/(中米テコンドー連盟発足の基盤が整う)。
崔泓熙氏が韓国大統領再選反対(三選は憲法違反と主張、)を理由にカナダに亡命。
ITF会員国による満場一致により本部をカナダ、トロントに移転 12.27 朴正煕第8代大統領就任。維新憲法公布
1973年
大韓テコンドー協会は1月10日、従来の軍内少道場を整備/43個所→9箇所。
2月14日、文教部令第301号により国民学校体育課過程にテコンドー種目採択。
テコンドーの組織防衛につとめた韓国政府は2月6日中央道場を国技院と命名。
5月25日に第1回世界テコンドー選手権大会開催(ソウル)。
5月28日に世界テコンドー連盟(World Taekwondo Federation : WTF/総裁:金雲龍)が創設。
8月31日、文教部令第325号により中学校体育教課過程にテコンドー種目採択。
12月5日、全国中高等学校テコンドー連盟創設。
12月9日、大韓テコンドー名義の段位認定証を国技院長名義に改称発給。
12月28日、韓国大学テコンドー連盟創設。
一方、ITF/崔泓熙総裁は同年、11月と12月に第3次ITFデモンストレーションチーム国際テコンドー使節団(崔昌根(チェ・チャングン)、イ・キハ、パク・チョンス、パク・ソンジェ、コン・ヨンイル)を引率しヨーロッパ、中近東、アフリカ、アジアを巡回訪問(史上最大のデモンストレ‐ションを行う/13カ国訪問中5ヶ国で予想外の支部と道場が設立し、エジプトでは10万の観衆を集めた)。
► 故崔泓熙ITF総裁の談 ベトナム戦争~カナダ亡命
「テコンドー・タイムズ113号(2000年1月発行)崔泓熙総裁へのインタビューより抜粋」
- キム博士:
- 1966年、あなたは国際テコンドー連盟(ITF)を創立します。この組織を設立した目的と、当時あなたを助けてくれた人のことを教えて下さい。
- 崔総裁:
-
1965年、私が大韓テコンドー協会の会長をしていた時、在西ドイツ韓国大使で私の友人だった崔徳新将軍がヨーロッパにテコンドーの親善使節団を迎えたいという声があることを教えてくれました。
彼は、ヨーロッパとアジア6カ国から使節団派遣が公式の招待となるように手配してくれました。私は政府に対し、正確な旅費の文書を提出しました。この使節団の名前は「国技テコンドー親善使節団」でした。 私が公式文書に、国技テコンドーという言葉を使ったのはこの時が最初でした。この使節団のメンバーはハン・チャギョ、パク・チョンス、クォン・ジェハ、そして金昌根(キム・チャングン)で、私が使節団長でした。私たちは、西ドイツ、イタリア、エジプト、トルコ、マレーシアそしてシンガポールを遠征しました。演武会は大成功し、結果的に遠征した国々でテコンドー協会が創設されることになりました。
1966年の3月22日、9カ国の代表者がソウルに集まり、国際テコンドー連盟(ITF)が創設されました。与党共和党委員長の金鐘泌氏が名誉会長に選ばれ、私は総裁に選ばれました。マレーシアの通商産業大臣である Lee, Han Ra氏が副総裁に選ばれました。事務局長に嚴雲奎(オム・ウンギュ)、技術委員会の委員長に李鐘佑(イ・ジョンウ)が選出されました。
国際テコンドー連盟の創設は、国際機構の本部が韓国に創られたこと、そして韓国人が総裁を務めるという点において、韓国史上初めての出来事でした。国際テコンドー連盟の創設メンバーとなった国々は、韓国、ベトナム、マレーシア、シンガポール、西ドイツ、アメリカ合衆国、トルコ、イタリアそしてエジプトでした。連盟は急速に大きくなり、たった2年で30カ国が加盟しました。 - キム博士:
- ベトナム戦争の間に、どのようにテコンドーは広く普及し、多く訓練されるようになったのですか?
- 崔総裁:
-
ベトナムは、テコンドーが大々的に教授された最初の外国です。前にも言いましたが、ゴ・ディン・ディエム大統領は1959年の我々の演武会に強い感銘を受け、指導者たちに、ベトナムの軍隊で教えて欲しいと要求しました。
最初の師範団は、南太熙(ナム・テフィ)少佐の引率で1962年にベトナムに着きました。この師範たちはテコンドーを、ベトナム軍、市民そしてベトナムに駐留していた韓国や他の国々の兵士たちに教えました。ベトナム戦争が拡大するにつれ、ベトナムに送られる指導者の数が増えていきました。
1973年までに647名のテコンドー指導者たちがベトナムへ行きました。
彼らの指導で、兵士たちは技術においても、新しく開発されたトゥルにおいても、上達を見せました。韓国人兵士のテコンドー訓練による強さは、ベトコン(南ベトナム解放戦線兵士)に心理的な影響を与えました。
テコンドーの訓練を通して、韓国人兵士は良好な健康状態と強い精神力、そして優れた戦闘技術を身につけていました。
ベトコンの指導者たちは兵隊たちに、もし韓国人兵士に遭遇した場合は、戦わずに退却するようにと通達していました。皮肉にも、テコンドーは戦争によって飛躍的に広まりました。
ベトナムでテコンドーを学んだ大勢の外国人兵士たちは、後に自分の故国に彼らの指導者たちを招待しています。ベトナム戦争によって、多くの指導者たちは世界中でテコンドーを教える機会を得たのです。 - キム博士:
- 崔将軍、あなたにとって答えにくく、個人的な質問をしますが、韓国からの亡命の背後にはどんな理由があったのですか?
- 崔総裁:
-
朴正煕大統領が再選を果たしてから、彼の韓国国内での力が堅固になりました。韓国の政治的風潮から、私が韓国にいて彼の政策を支持しないならば、私は自宅に軟禁されるか刑務所に入れられるかどちらかだろうと考えました。
私は彼が、政敵に何をしてきたのかずっと見てきました。このような周囲の状況から、私はテコンドーの奨励やITFの運営を自由にできなくなる様子でした。
そしてテコンドーは私の人生そのものでした。
選挙の後、朴大統領は、私に代わり大統領警護室補佐官の金鎔采を大韓テコンドー協会の会長に就任させました。それから程なく、大韓テコンドー協会はITFに干渉してきました。
1971年の8月、私はITFの常任委員会を主宰しました。
この委員会で私は言いました。「委員の皆さん、国際テコンドー連盟の総裁は韓国人ですが、だからといってITFが韓国政府に支配され、管理されるということはありません。ITFは国際機関であって、私たちの決定にはたとえ圧力があっても、いかなる国の影響も受けません」と。
その後、私は秘密裏に韓国を去る計画を立て始めました。 - キム博士:
- 亡命先にカナダを選んだ特別な理由があったのですか?
- 崔総裁:
-
ありました。まずカナダは西側諸国の一員だと考えられていましたが、国際的な問題については中立的立場を維持していました。
私は、カナダからなら、西側にも東側にも、そして第三諸国の国々にも自由に行かれてテコンドーを普及できると思いました。
2番目の理由は地理的なもので、カナダはヨーロッパと南アメリカのちょうど中間に位置しています。ですから、それらの国々に行くのに便利でした。
3番目の理由は、私の愛弟子のパク・チョンスがすでにカナダにしっかりとテコンドー協会を創設しており、大変盛況な道場を経営していたのです。ですから、ITFの本部をカナダに移すことは簡単でした。
その後私は、1976年にカナダのモントリオールでオリンピックが開かれることを知りました。
私は、カナダを基盤にテコンドーをオリンピックの競技に昇格させるいいチャンスが来たと思いました。 - キム博士:
- 予備役二つ星将軍がカナダに亡命したことを知った韓国政府の反応はどうでしたか?
- 崔総裁:
-
朴大統領は、韓国へ帰るように私を説得するために、著名な国会議員を私のもとに送り込みました。
彼らは、朴大統領が私に、外務大臣や好きな国での大使のポストなど内閣の地位を約束したと告げました。
これらの最初の企てに私が反論すると、次に朴大統領は私の中の良い友人を送って私の帰国を説得させました。それも失敗に終わると、朴大統領は私の息子と娘を誘拐し、もし私が戻らないならば彼らの命の保証はしないといいました。
私の答えは、「私は息子よりテコンドーを選ぶ」でした。朴大統領は私の性格と決意を知り、金雲龍氏にITFと戦うために世界テコンドー連盟(WTF)の創設を命じました。 - キム博士:
- 25年間の亡命生活で、あなたはどのような苦難に遭いましたか?
- 崔総裁:
-
亡命した人間の生活がどれほど孤独なものか、誰にもわかりません。私には財産もなく、笑ったり冗談を言い合ったりする友人もいません。でも私は、韓国を去った自分の決意を後悔したことは一度もありません。なぜなら、私はテコンドーを世界中に広める機会が得られたからです。
そして私は、民族・宗教・国籍そして思想に関係なくテコンドーを教えてきました。この点に置いて、私は世界一幸福な人間ですし、この世界に自分の足跡を残してきたことを誇りに思っています。テコンドーを世界中に広めることは、困難ですが非常にやりがいのある仕事です。
私は常に旅をして、セミナーを開き、演武会を指揮し、大会を主宰しています。私はこれらのことを、KCIA(韓国中央情報部)や韓国外務部から命を狙われる中でやってきました。
韓国政府の情報部員は空港の職員に、私が韓国大統領を殺そうとしているテロリスト組織のリーダーで、入国を拒否すべきだと教えました。
彼らは、我々にセミナーの施設を与えないために、体育館の所有者に圧力をかけました。公園でセミナーを開かなければならなかったことが何度もありました。
彼らは私の古い教え子を何人か送り込み、何度も私を誘拐しようとしました。私を暗殺しようとした企てもありました。
KCIAの情報部員は海外で教えている師範たちに、私との関係を継続するならば師範たちの両親を脅迫するといいました。
情報部員たちはまた海外居住者の師範たちに、もし変わらずに私を支持するならパスポートは更新しないと告げました。ですから時間が経つにつれて、海外の師範たちは私から離れていきました。
韓国政府から私が受けた圧力のせいで私はさらに強くなり、自分の持っているエネルギーをすべて新しいテコンドーの技の開発に注ぎました。
私は世界中で、同じ体系的方法でテコンドーを教えています。
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