テコンドーの歴史

解放直後の状況~1960年History

1945年8月15日朝鮮解放

解放後の空手競技の場 写真は青濤館館長 李元國
【 解放後の空手競技の場 写真は青濤館館長 李元國 】

日本の敗戦によって朝鮮が解放された翌年の7月頃、ソウルの田祥燮(チョン・サンソプ), 李元國(イ・ウォングク), 尹炳仁(ユン・ビョンイン)と開城の盧秉直(ノ・ピョンジク)らが、主に散在した空手(唐手)道場等を統括し協会から結成しようと2次、3次と会合を設けたが失敗し、ひとまずは空手の標準の型と統一された指導方法にて合意を見た。
朝鮮が解放されてから、武道界ではそれぞれの武道が、国内に散在している道場を統括し、協会を作ろうとする動きが起きた。
それは、大韓体育協会に一刻も早く加盟し、武道の社会的地位を確立し、普及・奨励をしやすくためだった。
しかし、空手・唐手・拳法・手搏道などのいわゆる打撃系の拳法は意志の統一がなかなか見られず、ひとつにまとまることができなかった。
これは、有力道場主の熾烈な主導権争いと、それに伴う「名称問題」のせいであった。

「解放後の主な道場」その1

唐手道「青涛館」

(チョンドグァン1944年9月~初代館長:李元國/1926年、19歳(満18歳)当時、日本へ留学、中学、高校、大学と進学、中央大学法学部在学中に松濤館へ盧秉直と共に入門、船越義珍に師事/朝鮮戦争勃発時、軍の召集を拒み日本へ密航)。
朝鮮国内最大空手(唐手)組織。青濤館の「濤」は松濤館空手の「濤」に由来し、ちなみに同門の友人盧秉直の開設した松武館の「松」も李元國と同様に松濤館の「松」に由来している。2人が「松濤」の二文字を分けあったという説もある。

「青濤館」の分館

國武館(クンムグァン)  /仁仙、 館長:カン・ソジョン
正道館(ジョンドグァン) /ソウル、館長:イ・ヨンウ
青龍館(チョンヨングァン)/光州、 館長:コ・ジェチョン
吾道館(オドグァン)   / 館長:崔泓熙陸軍少将(青濤館名誉館長)
主要輩出人名:ユ・ウンジュン、孫徳成(ソン・ドクソン)、オム・ウンギュ、玄鍾明(ヒョン・ジョンミョン)、ミン・ウンシク、ハン・インスク、チョン・ヨンテク、カン・ソジョン、ペク・チュンギ、ウ・ジョンリム、南太熙(ナム・テフィ)、コ・ジェチョン、クァク・クンシク、キム・ソクキュ、ハン・チャギョ、チョ・ソンイル、イ・サマン、イ・ジュング、キム・ボンシク…

「解放後の主な道場」その2

朝鮮研武館空手道部

(柔道傘下・1946年3月3日~館長:田祥燮/チョン・サンソプ/少年時代、柔道を学び以後日本留学中には空手を学ぶ、1943年帰国後、ソウルにあった柔道場、朝鮮研武館において空手を教えはじめる。
  解放後は空手部を創設)※朝鮮戦争時に田祥燮が行方不明(戦死、もしくは北朝鮮へ渡ったか?)、以降、指導師範の尹快炳/ユン・ケクェビョンと李鍾佑/イ・ジョンウによって智道館(チドグァン)と改称され1967年まで活動。
※朝鮮研武館は当時朝鮮で最も権威のあった柔道場である。
ユン・クェビョン→「※日本国内にあった「韓武館:現在、日本にある錬武会の旧名」の館長:尹 日義 炳 [いん ぎへい]と同一人物。また、尹快炳は遠山寛賢の直系愛弟子だった。)
主要輩出人名:ペ・ヨンギ、李鍾佑(イ・ジョンウ)、キム・ボクナム、パク・ヒョンジョン、イ・スジン、チョン・ジンヨン、イ・キョウン、イ・ビョンロ、ホン・チャンジン、パク・ヨングン…60?70年代にはイ・スンワン、チョ・ジョムソン、ファン・デジン、チェ・ヨンリョル…

「解放後の主な道場」その3

YMCA拳法部

1946~館長:尹炳仁/ユン・ピョンイン/少年の頃満州で中国武術(名称不明)を学び、後に日本へ留学、空手を学び5段取得、空手家の遠山寛賢と共に武道を研究する。学生当時は日本・東京のYMCAで崔泓熙氏と共に学友達に空手を教えた。
また、解放以前に帰郷し朝鮮研武館にて田祥燮と共に武道を教えた。
後、1946年にソウル鐘路にあるキリスト教青年会館にYMCA拳法部を創設、解放後はキョンソン農業学校にて体育の教師となり学生たちに自らの武道を教える)、朝鮮戦争の時に尹炳仁が行方不明となり、以降は弟子の李南石(イ・ナムソク)とキム・スンベらによって章武館(チャンムグァン)と改称。

章武館分館

朝鮮講徳院(チョソンカンドグォン):ホン・ジョンピョ、パク・チョルフィ

韓武館(ハンムグァン:館長:イ・キョユン)
主要輩出人名:イ・ナムソク、キム・ソング、ホン・ジョンピョ、パク・チョルフィ、パク・キテ、キム・ジュカプ、ソン・ソクチュ、イ・ジュホ、キム・スン…

「解放後の主な道場」その4

武徳館

(ムドックァン館長:黄琦/ファン・ギ/1935年南満州鉄道局に入社後「国術:クッスル」を学ぶ(自称)。
解放直後ソウル・ヨンサン駅付近の鉄道局に運輸部唐手道部を開設、1955年、武徳館中央本館と全国9箇所に支部道場を新設し「韓中親善国際唐手道演武大会」を開催、1960年「大韓唐手道協会」を独自に発足し「大韓手搏道会/テハンスバクトフェ」へと改称。
主要輩出人名:キム・ウンチャン、ホン・ジョンス、チェ・フィソク、ユ・ファヨン、ナム・サムヒョン、キム・インソク、イ・ボクソン、ファン・ジンテ、ウオン・ヨンポプ、チョン・チャンヨン、イ・カンイ…

「解放後の主な道場」その5

松武館

(ソンムグァン1946.~館長:盧秉直/ノ・ピョンジク:日本留学中、李元國と共に松濤館へ入門、船越義珍に師事。主要輩出人名:イ・フェスン、イ・ヨンソプ。キム・ホンビン、ハン・サンミン、ソン・テハク、イ・フィジン、チョ・ギュチャン、ホン・ヨンチャン、カン・ウォンシク…

左から李元國、黄琦、盧秉直(2000年)
【 左から李元國、黄琦、盧秉直(2000年) 】

「朝鮮戦争」

~1950年6月25日 - 1953年7月27日休戦

朝鮮戦争中当時、臨時首都であった釜山(プサン)において避難生活をしていた空手人士達が協会設立に合意。
大韓空手道協会(テハンコンスドヒョップェ)創設。

盧秉直(ノ・ピョンジク)、黄琦(ファン・ギ)、尹快炳(ユン・クェビョン)、孫徳成(ソン・ドクソン)、李南石(イ・ナムソク)、李鍾佑(イ・ジョンウ)、玄鍾明(ヒョン・ジョンミョン)、趙寧柱(チョ・ニョンジュ)、金仁和(キム・インファ)らが参与。
初代会長:趙寧柱:チョ・ニョンジュ(在日本居留民団団長)。
しかし、大韓空手道協会創設後、1ヶ月もしないうちに、武徳館館長:黄琦(ファン・ギ)が中央審査委員の資格がもらえない事を理由に脱退。
続いてその1ヶ月後、青濤館館長:孫徳成(ソン・ドクソン)も同じ理由によって脱退した。統合は果たせなかった。

1953年

朝鮮戦争中に武徳館館長 黄琦(ファン・ギ)が独自にテハンタンスドヒョプェ(大韓唐手道協会)を組織し、大韓体育会加入へ向けて動き出した。
この事態を深刻に受けとめたテハンコンスドヒョプェ(大韓空手道協会)は加入を防ごうと、大韓体育会に対し、陳情書を提出するなど、あらゆる防止策を取った。そして、遂にテハンタンスドヒョプェ(大韓唐手道協会)の大韓体育会加入を防いだ。
この防止活動の主軸となったのは尹快炳、盧秉直らであった。
テハンコンスドヒョプェ(大韓空手道協会)の会長には財務長官を経た李重宰(イ・ジュンジェ)が就任した。
副会長に国会議員 閔寛植(ミン・グァンシク)、そして、理事長に盧秉直、事務局長に李鍾佑(イ・ジョンウ)が選任されていた。
ちなみに会長を推薦したのは閔寛植であった。

1954年

崔泓熙将軍と副官の南太熙(ナム・テフィ)を含む第29歩兵部隊が李承晩大統領の閲兵を受け演武を披露。李承晩大統領が全軍普及への宣言。
12月、崔泓熙陸軍少将が「テコンドー」の名称化を決定。
崔泓熙陸軍少将はこの年、国軍内に吾道館(オドグァン)を創設、館長に就任。
また、青涛館(チョンドグァン館長:孫徳成/当時国内最大で最も威厳を持った道場だった)の名誉館長に推薦され青濤館を直接指揮。

1955年

4月11日に崔泓熙陸軍少将が名称制定委員会を召集しテコンドーの名称が李承晩大統領によって公式に認定される。
名称制定委員会には国会副議長のチョ・キョング、連合参謀議長李享根(イ・ヒョングン)大将、青涛館館長 孫徳成(ソン・ドクソン)ら参席。

1956年

崔泓熙陸軍少将が全国学生テコンドー連盟を組織し軍、一般、学生の組織を整理。

1957年

崔泓熙陸軍少将が太田(テジョン)市に最大規模のテコンドーセンターを建設。

1958年

崔泓熙陸軍少将が予備軍監の職を利用し全予備師団にテコンドーを普及。

1959年

崔泓熙陸軍少将が21名の師範で構成された国軍テコンドー師範団を引率しベトナムと台湾を訪問。
これは当時のベトナム共和国駐在大使であった崔徳新氏による外交手腕に基因した。

6月15日、青濤館館長の孫徳成が朝鮮戦争時に日本へ密航した「非国民および青涛館分裂謀略策動計画者である初代館長李元國と接触し、指令書を受け取った」などの理由から崔泓熙陸軍少将の名誉館長職を取消し、同時に玄鍾明(ヒョン・ジョンミョン)師範、嚴雲奎(オム・ウンギュ)常任師範、南太熙(ナム・テフィ)師範を除名処分した。
しかし、この行為は崔泓熙陸軍少将を相手にその通用力を有しなかった。
実のところは孫徳成が民間人という理由で巡訪団のメンバーに加えられなかったのが理由と考えられている。

同年、9月に崔泓熙陸軍少将は国軍主軸の「テコンドー会」と青涛館を主軸とする「大韓唐手道協会」らを統合し大韓テコンドー協会を創設。統合宣言をアピールした。
初代会長 崔泓熙、副会長 尹快炳(ユン・ケビョン)、盧秉直(ノ・ピョンジク)、理事長 黄琦(ファン・ギ)が選任された。しかし、国内の情勢不安定(学生蜂起)に伴い公式認定がなされなかった。

写真左から3番目が崔泓熙総裁
【 写真左から3番目が崔泓熙総裁 】

1960年

「4.19学生蜂起」により李承晩大統領がハワイへ亡命。
国内混乱の最中、以前「大韓唐手(タンスド)協会」公認化を阻止された黄?(ファン・ギ)が、団体名称を大韓手博道会(テハンスバクトフェ)に改称。
黄琦(ファン・ギ)は政界有力者を通じて大韓民国文教部(日本の文部省にあたる)体育会に社団法人大韓手博道会の登録を完了させた。
間を突かれた大韓テコンドー協会はこれを不当とし、文教部に対し陳情書をもって強く抗議した。
しかし、文教部は大韓テコンドー協会に対して「現法に保証されている結社の自由を妨げる訳には行かない」とした。
また、「同じ種目で二つの団体は認められないので統合会議を開いた後、単独団体として決着してから再度書類の提出を望む」と対応した。
時同じくして崔泓熙陸軍少将:米テキサス州、ミサイル学校に通いながらテコンドーを紹介。
米サンアントニオにて学友たちに空手名称を用いて教えていた弟子のイ・ジュング(米通称名:ジョン・リー)に会い名称をテコンドーに変更させる。

同年(1960)、崔泓熙陸軍少将が各連隊に道場を1つ以上建設。

崔将軍を空港で出迎えるイ・ジュング(ジョン・リー:Jhoon Rhee)
【 崔将軍を空港で出迎えるイ・ジュング(ジョン・リー:Jhoon Rhee)】

崔泓熙将軍の略歴(1945~1960年)

1943年10月20日

日本陸軍に強制徴収。ソウルで基礎訓練を受けた後、平壌師団の第42部隊に送られる。
学兵事件に加わり逮捕。反逆罪で日本の軍事裁判にかけられ、当初は7年刑だったが覆され死刑判決(死刑執行予定日8月18日)を受ける。

1945年8月15日

死刑執行三日前、日本の敗戦と共に解放。平壌刑務所を出所しソウルで学兵団組織。

1946年1月15日

韓国陸軍少尉に任官。
3月、全羅南道・光州 第4連帯中隊長に就任。
4月、中尉に昇格。忠清南道太田にて第2連隊長に赴任。

1947年

大尉を経て少令(少佐)へ昇格。陸軍本部専属情報参謀役。

1949年

大令(大佐)へ昇格。米国士官学校高等軍事班へ入学。

1950年

米国士官学校卒業。朝鮮戦争勃発と同時に帰国。戦防地区の情報責任役。陸軍士官訓練学校創設、自らが副校長になる。

1951年

陸軍准将に昇格。

1953年

歩兵29師団を済州島へ創設。

1954年

軍事「情報一般論」執筆。陸軍少将へ昇格。

1955年

忠清南道太田にて第三軍管区創設および司令官へ就任。

1960年

第6軍管区司令官、陸軍情報参謀部長、戦闘基地司令官、ロンサン第二訓練所長を歴任。

 


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